大阪高等裁判所 昭和44年(う)820号 判決
以下は、判例タイムズに掲載された記事をそのまま収録しています。オリジナルの判決文ではありません。
〔判決理由〕所論は、何れも、被告人が被害者を殺害するに至らなかつたのは、傷が被害者の急所を外れたためではなく、被告人が犯行後直ちに悔悟憐憫の情を起こし、被害者を救助するため、自発的に自動車に乗せて、高島病院に運び込み、医師の協力を得て被害者の一命を取り止めるに至つたものであるのに、原判決はこの点を無視して中止未遂と認定せず、刑法四三条但書を適用しなかつたのは、事実を誤認し法令の適用を誤つたものである、というのである。
よつて考察すると、被告人は、計画的に被害者を殺害しようという意図を抱いていたのではなく、犯行直前突嗟の間に未必の殺意を生じたのであるから、刺身庖丁で被害者を何回も突き刺そうなどという予謀があつたとは到底考えられず、刺突行為は事実上一回で終了しているのみでなく、その刺突行為たるや、被害者の左腹部をめがけて突刺し、肝臓に達する深さ約一二センチメートルの刺創を負わせたものであつて、右一回の刺突行為それ自体において殺害の結果を発生せしめる可能性を有するものである。従つてそれだけで被告人の実行行為は終了したものというべく、被告人の本件殺人未遂の所為はいわゆる実行未遂の類型に属するものと解するのが相当である。
ところで、被害者が腹部を突き刺され庖丁の取り合いをした後腹部の激痛に耐えかね、「痛い痛い」と言つて泣きながら「病院へ連れて行つてくれ」と哀願したので、被告人は被害者に対する憐憫の情を発すると共に今更ながら事の重大さに恐怖驚愕して被害者の死亡の結果が発生するのを食い止めるため出血しつつある同人を自己運転の自動車に抱き入れて直ちに近くの高島町所在の高島病院に連れて行き医師の手に引き渡した事実は原判決引用の被害者金慶錫及び被告人の各供述調書により明らかである。そこで進んで被告人が右のように未必の故意であつたにせよ殺害の意図を放擲し被害者救助の行動に出でたのが、いわゆる外部的障がいの原因によるものと解すべきか、あるいは内部的原因により任意に結果発生を防止したものと評価すべきであるかを考えると、被害者の流血痛苦の状態を目前にして憐憫の情を催しかつ事の重大性に驚愕恐怖し殺害意思を抑圧せられたことは外部的障がいに基くものといい得るであろうが、この点はいずれにしても実行未遂である本件において実行行為終了後の不作為は問題ではなく、むしろ殺意の放棄に随伴して被害者の一命を取り止めるための救助活動を開始した点は、被告人がその内心の意思により任意に結果の発生を防止するに努めたものと評価してこの点に着目する必要があると思われる。そして右のように外部的障がいと任意の内部的原因とが微妙に交錯しているとはいえ、被告人の任意による爾後の救助活動が存在する以上、直ちに中止未遂にあたらないものと断定し去るのは、いささか早計に過ぎるであろう。
然しながら、本件のように実行行為終了後重傷に呻吟する被害者をそのまま放置すれば致死の結果が発生する可能性はきわめて大きいのであるから、被告人の爾後の救助活動が中止未遂としての認定を受けるためには、死亡の結果発生を防止するため被告人が真摯な努力を傾注したと評価しうることを必要とするものと解すべきである。そこで救助の段階における被告人の言動を検討すると、被害者の捜査段階における司法警察職員及び検察官に対する供述によると、被害者を高島病院へ運ぶ途中自動車内において、被告人は被害者に対し「わしに刺されたといわんようにしてくれ」と言つたところ、被害者はそれを断つてはまた刺されて殺されると思い、かつ一刻も早く病院へ運んでほしかつたので、「お前のよいように言うておけ」と返事した、というのであり、被告人の司法警察職員に対する自供によると、被害者を病院へ担ぎ込んだ時同人が被告人に「お前がやつたと警察へは言うなよ」と言つたのでその好意に甘えた、というのであつて、その動機は何れとも断定しがたいが、被告人が被害者を病院へ担ぎ込み、医師の手術施行中病院に居た間に被告人、被害者の共通の友人数名や被害者の母等に犯人は自分ではなく、被害者が誰か判らないが他の者に刺されていたと嘘言を弄していたこと及び病院に到着する直前に兇器を川に投げ捨てて犯跡を隠蔽しようとしたことは動かし得ない事実であつて、被告人が被害者を病院へ運び入れた際、その病院の医師に対し、犯人が自分であることを打明けいつどこでどのような兇器でどのように突刺したとか及び医師の手術、治療等に対し自己が経済的負担を約するとかの救助のための万全の行動を採つたものとはいいがたく、単に被害者を病院へ運ぶという一応の努力をしたに過ぎないものであつて、この程度の行動では、未だ以て結果発生防止のため被告人が真摯な努力をしたものと認めるに足りないものといわなければならない。
従つて本件が中止未遂にあたるとする所論は採用するに由なく本論旨は失当である。(児島謙二 木本繁 今富滋)